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ユーススコラの茶の木_vol.1_はじめまして

2018.04.20

初めまして日本茶アンバサダー第3期の米衛と申します。こちらのエッセイではユースコラ鹿児島のお茶の木についてお伝えします。

むかしの話です。と言っても60数年前です。
父の実家は農家で,戦争直後はまだ使用人もいて,茶摘みの季節には親戚も総出で茶摘みをしていました。

一番若い嫁であった母は,姑と二人,釜屋(壁の片側に大きい竈(かまど)が3つ並ぶ3畳ほどの土間と、醤油,味噌の瓶,漬物の樽が並ぶ3畳の板の間のある小屋)で直径90cmの鉄鍋で茶の葉を炒り,竹のほいろで乾燥させて一年分のお茶を仕上げていたそうです。

母とお茶の関わりはそこから始まります。

その後,父の仕事の都合でたまたま宮崎県の茶の産地である,高千穂や椎葉に転勤を繰り返したのですが,どの土地でも母は茶摘みや茶葉作りの手伝いを請われたそうです。

20数年後には自分の家を建てました。

父母が土地を手に入れたとき,祖母は茶の実を拾い集め,「いつか家を建てたときに役に立つ」と手渡したそうです。

そして,次の年から2歳の子の手を引いて茶仕事を始めました。
私とお茶の関わりはそこから始まります。
もうその頃は自分でお茶を仕上げる家は少なくなり,父の実家も茶葉を茶工場へと運んでいました。

 

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茶造りの道具は祖母から譲り受けた竹のザルやバラが大半で,
今はボロボロになったものもあります

我が家は屋敷周りに植えたお茶です。

 

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工場へ運ぶほどの量でもなく,毎日摘み,蒸してはもみ,香ばしい香りになるまで煎り上げ乾燥させます。
これを40年間毎年繰り返してきました。

母の最近の口癖は「いつまでこんなことが出来るかね」です。

私が1人になったらお茶を作るという手仕事も我が家からなくなるだろうと思っていた昨年,夫が特別支援学校を卒業した青年を対象とした,福祉型専攻科・大学 「ユーススコラ鹿児島」を開校しました。私は調理担当の講師として関わることになり,将来のプログラムの一つとして茶作りを提案し、お茶の栽培を始めました。
ユーススコラの茶の木はまだまだ小さく,本数も少なく,いつ茶摘みが出来るかわかりませんが,今年もまた苗を植え,茶の種を蒔き、増やしていきたいです。
試行錯誤のとりくみ,一歩一歩のあゆみです。

 

この記事を書いた執筆者

米衛康江日本茶アンバサダー

米衛康江(よねえ やすえ)

宮崎県生まれ,県北高千穂で育つ。
宮崎大学卒業後県立延岡聾学校勤務,育児のため鹿児島に移住する。
ハーブ・スパイスに興味をもち,自宅で料理教室『Cinnamon & Rosemary』を主宰しています。
スパイスコーディネーター協会 Spice Codinator 取得
オープンガーデン鹿児島『Flower Rondo』に属し,チューリップとアナベルのオープンガーデンを開いています。